『春駒荘の人々』中元彩紀子
第18話 曼珠沙華の花の色


 目がさめたのは昼近くだった。夕べから外へ吊るしてあった洗濯物を取り込むと、どこからか早々と金木犀の匂いが漂ってくる。陽気がすっかり秋めいてきて、空気も心なしか乾いているように感じる。
  ここのところずっと稽古場に出ているので、今日こそはバイトに出なくてはならない。身支度を整え、財布をつかんで表に出ると、ちょうど大家のばあさんが坂を降りてゆくのが見えた。
グレーの無地のワンピースに青磁色のカーディガンを羽織っている。いつもより小奇麗な格好だったので、僕は一瞬姉妹か誰かかと思ったほどだ。声をかけるタイミングを失い、僕はただ彼女をつけるような格好で後ろを歩いていた。
  無地だと思ったワンピースは、よく見ると裾に細かい刺繍が施されており、その下から鶏ガラのような足首が少し内股気味にのぞいている。膝の辺りでは、黒い革のハンドバッグが揺れている。粧しこんで、どこへ行くのだろうか。ぺたぺたと歩くばあさんは、なんだかいつもより少し小さく見えた。
  彼女のペースに合わせていると、不自然な歩き方になってしまう。そろそろ追いこさないと、と思った瞬間、突然彼女は立ち止まった。そして言ったのだ。
  「引ったくろうったってそうはいかないよ」
  ぎょっとして立ち止まる。辺りを見回すが、坂には下方に車が行き交うだけで、人は僕とばあさんだけだ。
  「大家さん、違いますよ、僕ですよ」
  慌てて声をかけると、彼女はちらりとこちらに顔を向け、小さく「なんだ」とつぶやいた。
  やっと追い抜くタイミングを与えられて、僕がそのまま会釈して先を行こう歩を速めた時だった。
  「女の後を歩くなんてタチの悪い真似はおよし」
  きっぱりとそう言ってこちらに向きなおった彼女の顔に、僕は思わず声を上げそうになった。驚愕で顔がひきつると、こめかみが痛くなると知ったのはこの時だった。
  「なんだいその顔は、」
  それはこっちのセリフだと言ってしまいそうになるのをかろうじてこらえる。
  「あの、また今日は、ずいぶんと、」
  「ずいぶんとなんだっていうの、」
  挑むような目に、僕はたじろぎながら、でも言うしかなかった。
  「きれい、ですね」
  するとばあさんは、フゴッと鼻を鳴らしたかと思うと、片頬だけ上げて、ふんっ、と笑った。
  その顔と言ったら、たとえるなら、小麦粉をまぶした干し柿。そう、目鼻のついた干し柿だ。紅をひいた唇が貧相にひん曲がっている。きれいには程遠いその顔から目が離せないでいると、彼女はなおも言う。
  「なんだいその顔は、」
  だからそれはこっちのセリフだ、と思っていると、ばあさんは不意に思いついたかのように、そうだ、と言って両手を叩いた。
  「あんた、花屋で働いてるんだろ、」
  「ええ、今から行くところですけど」
  「ちょうど良かったよ。ここに書いてあるのを坂上の真覚寺まで届けとくれよ」
  ばあさんは、がま口から出した千円札を三枚と、何やら細かい字で書かれたメモを差し出しながら、ちょいと負けとくれよね、と加えた。
  「下まで降りて、また上がるのは、容易じゃないんだよ」と言いながら、腰を伸ばしてとんとんと叩いている。そのまま、彼女は僕の返事も聞かず、もと来た坂を今度は逆に上っていった。その後ろ姿を眺めながら気づく。小さく見えたのは、いつもの手押し車のつっかえがないために、背中がより曲がっていたからだった。

 「鶏頭、コスモス、スプレー菊の白、アリストロメリアに松虫草、トルコキキョウの八重…ああ、あったあった」
  店主の奥さんはメモを読みながら、次々とバケツから花を引き抜いてゆく。出来た花の束を眺め、僕に笑いかける。
  「お墓参りにしては、ずいぶん派手な取り合わせねぇ」
  派手なのは花だけじゃなかったな、と思いながら、僕は干し柿を思い浮かべていた。
  「春代さん、旦那さんに会いに行くんで、おめかししてたでしょ」
  「ええ。…あれ、ご存知なんですか」
  「知ってるわよ。いつもお墓参りの時はそうだもの」
  「いや、そうじゃなくて、うちの大家のこと」
  すると、彼女はきょとんとした顔で、黙り込んだ。
  「やだ、知らなかったのあなた」
  知ってるの知らないのと、妙な具合だ。
  「彼女はうちの御贔屓さんだもの。面接の時、履歴書に春駒荘って書いてあったでしょ。だから、春代さんに聞いたのよ、どんな店子さんなのかって。そしたら、あの子は間違いないから絶対雇えって。それであなたに決まったの。時給も上げさせられたわよ」
  僕の何を見て「間違いない」と思ったのか知らないが、陰でそんな風に引き立ててくれていたのを知って、僕は少しばあさんを見直した。
  「はぁ。すみません」
  あんたが謝ることないわよ、と言いながら、彼女は僕に二つの花束と釣り銭を渡し、早く行け、と僕の尻を叩くのだった。

 春駒荘の坂道は、車で上れば一分とかからない。ふだん見ている光景が、見慣れぬ早さで通り過ぎてゆくのに違和感を覚えながら進むと、坂の頂上付近にある真覚寺にはあっという間に到着した。
  車から降りて境内へ入ると、木陰にしつらえたベンチの脇にばあさんがちんまり腰掛けている。大家さん、と声をかけると返事がない。居眠りしているようだ。二度三度と声をかけたが、うんともすんとも言わないので、僕は近くまで寄り、ふと思いついて、春代さん、と声をかけた。
  すると、彼女の小さな肩がひょいっと飛び跳ね、同時に「へぇっ」という返事があった。
  寝ぼけているのか、焦点の定まらない目でしばらくきょろきょろしていたかと思えば、急に絞り出すような声で、やめとくれよ、と言う。
  「気安く呼ばないでおくれよ。人が見たら勘違いされるじゃないか」
  老女と青年を見て、人がどう勘違いするというのだ。
「そんなところで寝てたら、それこそ引ったくりに遭いますよ」
  注文の花束と一緒に釣り銭を渡そうとポケットの中を探っていると、彼女はそのまますたすたと墓地の方へ歩いて行ってしまう。両手にはハンドバッグと水が入っているのだろう薬缶が重そうに揺れている。仕方なく、僕は彼女の後に続いた。
  その墓は、敷地内でもわりと大きな部類に入るものだった。近くに植えてあるびわの木の陰にはなっているが、木漏れ日が足下のところどころに紋様を描いている。それより何より目をひいたのは、墓地のぐるりを囲う真っ赤な彼岸花だった。秋になると線路や田畑の周囲に見られる花だ。
  「ちょっとした眺めですね」
  ばあさんは、すぐには何のことか分からなかった様子で首を傾げたが、彼岸花、と僕が口にすると、ああ、と小さく口の中でつぶやいた。そして、僕の手から黙って花束を取ると、包装を破いて花差しに供えた。黙って見ているのもなんなので、もう片方を僕が供えようと腰をかがめた時だった。急にばあさんが口を開いた。
  「曼珠沙華、きれいだと思うかい、」
  「まんじゅしゃげ、ですか」
  「彼岸花のことだよ。死人花、地獄花、幽霊花とも言う、縁起の悪い花だよ」
  そういえば、子供の頃、彼岸花を抜いたら火事になる、と教わったことがあった。
  「花咲く時は葉がなくて、葉のある時に花はない不気味な花なんだよ」
  「でも、きれいですよ。これだけ強烈な赤だと、息をのみますね」
  そうかい、とばあさんは言い、今度は墓に薬缶をかかげて水をかけている。
  「曼珠沙華は天上に咲く花なのさ。でも天上の花は本当は白いんだ。なんで赤くなっちまったんだろうねぇ」
  「何ででしょうね」
  「知りたいかい、」
  干し柿が上目遣いでこちらを見上げているのと、その言い方があまりに不気味なので、思わず後ずさりしてしまう。
  「昔、飢饉の時に、人はこの花の球根を毒抜きして食べて飢えを凌いでたんだよ。で、最後の最後、本当に飢え死にしちまうって時までとっとくために、墓地に植えて、縁起の悪いものってことにしといたんだけど、言うこと聞かずに、毒抜き忘れて食べちまった者がいてね。そいつの血の色だって話だよ」
  「本当ですか、」
  「さあどうだかね。白い曼珠沙華にはあちらに呼ばれるっていうから見つけたらお気をつけよ」
  ばあさんは、ふっふっと笑うと、線香に火をつけた。そして僕が一緒になって手を合わせていると、一体いつまでいる気だろうねこの子は、と言って僕を追い払う仕種をする。
  「あんた、いくらひもじくても、曼珠沙華の球根だけは食べちゃだめだよ。死人が出たら部屋の借り手がつかないからね」
  僕は苦笑しながら挨拶をして、その場を辞した。
  車に乗りかけて、釣り銭を返しそびれたことに気づいて引き返すと、さっきまでいた墓の前でばあさんがしゃがんで何か歌っている。そばの墓石に隠れて耳を澄ますと、それは蘇州夜曲だった。
  「君がみ胸に抱かれて聞くは
  夢の舟唄、鳥の歌
  ……おまえさん、あれは店子ですからねぇ。あたしとは何もありゃしないんだから」
  憎まれ口しか言わないばあさんと、今そこで恋い慕った人に歌を聞かせる人が同じ人物とは、ロマンス好きの真弓さんくらいにしか理解できないだろう。けれど、僕はほんの少し、大家のばあさんをかわいいと思うのだった。釣り銭は、帰りしな封筒に入れて郵便受けに入れておいた。

 数件の配達を終えて仕事がひけると、辺りはもうすっかり暗くなっている。
  「彼岸花って妖しい花ですね、」
  昼間の話を奥さんにすると、彼女は合点がいったように頷いた。
  「確かに墓地に多いから嫌われてるけどね、彼岸花は自然に墓地に生えたものじゃないの。彼岸花は種子がないもの。球根だけで増えるのよ。わざわざ人が植えたの。墓地に多いのは、春代さんの言う通り、昔からの習わしでしょ」
  「曼珠沙華っていうのは天上の花で、本当は白いんですって」
  「たしか白花曼珠沙華っていうんだったかしら」
  「ほんとにあるんだ、」
  てっきりばあさんの作り話か、伝説の花だと思っていたのに、急に現実的になってしまって、僕はがっかりすると同時に少しほっとした。
  「でも見たことはないわ。春代さんが言うんだから、見つけたら気をつけた方がいいかもねぇ」
 
  春駒荘の坂道を上っていると、不意に後ろから声をかけられた。真弓さんだ。
  昼間の墓参りの話をすると、案の定真弓さんは、やっぱり駒菊の春汐さんだわねぇ、とうっとりとした顔でため息をついた。
  やれやれと思いながら目をやった先で、何か暗闇に白く浮かぶものがある。春駒荘の向かい、大家宅に隣接する焼却炉の片隅で、それは夜風に揺れていた。
  「真弓さん、あれ」
  「あら、彼岸花じゃないの、これ。白いのなんて珍しいわね。…なに、青い顔してんの」
  白い曼珠沙華は、細い花弁を上に向けているが、少し元気がなくうなだれているように見える。それはまるで、白骨化した人の手のようだった。昼間聞いた、曼珠沙華の花の色の秘密を話すと、真弓さんは文字どおりブーッと音を立てて吹き出し、げらげら笑っている。
  「そんなの、担がれたにきまってるじゃない。あそこらへんのは、全部大家さんが植えてんだよ」
  「なっ。そうなんですか、」
  わざとだ。植えた後でわざとあんな話をしたのだ。どこまでも憎らしいばあさんだ。真弓さんもあんまり笑い過ぎて、手にしていた買い物袋を落としてしまっている。僕は悔しいのときまり悪いのとで、話を変えるべく、拾ってやりながら尋ねた。
  「何買ってきたんです、」
  「ん、トイレの消臭剤。今のやつ、すっごいきついから変えるの」
  思い当たることがある。
  「それって、金木犀の香りじゃないでしょうね、」
  なんで知ってるの、といった顔で彼女は頷く。
  「僕が今朝、窓を開けた時に感じた秋の匂いです」
  その瞬間、真弓さんは再び笑い出すのだった。
  「あんた、今日はほんとについてないね」
  ふと大家の視線を感じたような気がしたのは、白い曼珠沙華のせいだろうか。してやったり、といわんばかりに揺れている。